糸洲安恒先生は、近代の空手を生み出した先駆者だが、いま空手と呼ばれる技術の中には、糸洲先生の創始した空手ではない空手がある。剛柔流や上地流などがそれである。また、創始者ににもかかわらず本土の空手界では以外に知られていない面も多い。
本土では糸洲先生の直系と見られる人がほとんどいないからである。これは首里手の創始者である松村宗棍先生が、沖縄でも実際の真価以上には知られていないし評価されていないのと同じである。これは別に述べるが、糸洲先生の項を設けたのは、糸洲十訓をはじめ、多くの点で重要な意味を持つからである。
それだけではなく、私の理解している範囲でも、糸洲先生に纏わる話題は、群を抜く多さだ。
空手は大昔からあったような歴史を語る人も多いし、中国武術の亜流との見解もあり、日本古来の武術などと言う的外れな意見もあるのだが、空手(あるいは唐手)と言う名称の技術についてなら、それらは全て俗説に過ぎない。
空手は明治38年に首里の男子中学および男子師範学校で採用された教科で、作ったのは糸洲安恒である。つまり、中等学校の体育の一教科であった。古来の琉球武術でもなければ福建拳法でもない。
糸洲の創始した空手に遅れること約20年後に、商業学校の教科として採用された別の空手がある。創始者は宮城長順で、それが今言うところの剛柔流である。空手としての剛柔流は、東恩納寛量の手でもなければ、ましてや那覇手などと言うものではない。東恩納寛量から習った手を元に、宮議長順が糸洲の空手を参考にして創始したもので、商業学校で指導した。
こう言うと、常識と異なっていると怒る人もいるかも知れないが、そもそも、空手と言うのは、武術でもなければ、格闘技術でもなく、中等学校の体育教科であったことから当然のことなのである。
第二代全空連専務理事の高木房次郎氏の口癖に「空手は武術ではなく学校体操でしょう」と言うのがあったが、この学校体操と言う理解は多少の問題もあるのだが、空手は武術だなどとする愚論よりははるかにましな意見ではあった。
中央が糸洲先生現在は沖縄県立図書館に保存されている。向かって右は竹内校長だそうだ。糸洲先生は同校嘱託唐手教師、お年は70余歳と伝えられる。
糸洲先生の写真と言うものはなく、インターネット等では糸洲先生の肖像画と称するものが横行していた。この写真は首里の男子中学の空手部の顧問だった徳田安文(糸洲門下)先生が所持していて、金城裕先生が徳田先生から頂いたものだそうだ。金城先生はこれが糸洲先生であるかどうか確信がなかったので仕舞い込んでいたが、蔵書を沖縄県立図書館に寄付されたことから、沖縄県で調査した結果、写真中央の白髭を蓄えた方が糸洲安恒であることが判明した。向かって右隣は校長先生、左隣は柔道の先生だそうである。
糸洲先生の顕彰碑は、宮平勝也先生(小林流)が山中の糸洲家の墓所に建立されたが、那覇市の墓地の整理で一箇所にまとめられた糸洲家の墓所に移転されている。糸洲先生の真価ほど評価は高くないと前述したが、それは本土空手界のことで、沖縄の首里系統の方から見れば大変に偉大な先人であることは言うまでもない。顕彰碑は、糸洲安恒-知花朝真-宮平勝哉と繋がる宮平先生によって建てられた。
糸洲家の私的な情報であるため詳しくは申し上げないが、糸洲先生のお子さんを私は知らない。お孫さんの糸洲安剛さんとは何度か電話でお話したことがる。現在の当主はひこ孫の糸洲昇さんで、お二人の娘さんがいて、近くの空手道場(剛柔流)に通われていた。