首里系統の空手の系譜としては、松村宗棍→糸洲安恒→屋部憲通、花城長茂・・・船越義珍、摩文仁賢和、遠山寛賢(沖縄関係は省略)などと続くが、松村先生と糸洲先生は師弟関係ではない。首里の後輩で松村先生の影響を受けたと言う関係である程度だろう。あまり知られていないが、糸洲門下の巨星である屋部憲通先生(船越先生を可愛がったらしい)は、松村先生の邸内に居住していたが、首里手の指導を受けた形跡はない。(おそらく身分が違うせいだろう)
松村先生は上級武士(本部先生も)、糸洲先生は下級武士(琉球王朝の祐筆のような仕事)で、糸洲先生はもともとは首里手ではなかったらしい。
糸洲先生の師匠は長浜親雲上と呼ばれた泊手の人だったらしく、糸洲先生は長浜先生に連れられてあちこちの道場を回ったそうである。長浜先生は糸洲先生の師匠でもあり先輩でもあったようで、長浜先生がお亡くなりになる一週間ほど前に糸洲先生は病床に呼ばれ、「僕が君に教えた手は間違いだった」と何事か注意を与えたそうである。これは私の想像だが、糸洲先生はこれを契機に、武士松村の手に注目し、それを探し求めたのではないかと思う。
糸洲先生がもともとは泊手であったことは、平安やパッサイ大(いずれも糸洲先生の改変あるいは創作)を見ればすぐに分かることである。また、糸洲先生を家庭教師に招いた本部家の子供のうち、弟の本部朝基先生には泊手の影響が見られる。
系譜では、本部先生は糸洲先生の弟子とされているが、本部先生ご自身は、
「兄貴は糸洲に習ったが、俺はあんなうすのろには習わなかった。窓から見ていただけだ。糸洲はドシンドシンと地面を踏み鳴らして教えていた」
と東洋大学の学生たちには話したそうである。(元糸東会理事長海保薫先生談)
真偽のほどは確かではないが、身分が違う(本部先生は王族)ので、本部先生は指導を受けたにしても年上の友人くらいの感覚だったのだろう。本部先生は時折糸洲先生のところを訪問したらしいが、何か糸洲先生が改変した型を門下生に指導していて、最初は「チャンナン」と言う名前だったが、後に訪問したときは「ピンアン」と言う名に変わっていたそうだ。唐手の型を作ろうとしてた時期だろう。