最初、空手は唐手と称していた。何故、唐手だったかという問題は後で述べるが、唐手が空手に変わったのは何時か、誰が変えたのかはご本人がそう言っているのだから確かで、これは船越義珍と言うことになる。時期は昭和初期、「色即是空」の空から取ったと言うことである。これが本土で空手と言う名称が使われた経緯である。
ところが、沖縄ではこれより遙かに早く空手という名称が使われた。唐手は学校体育の教科名だから、空手への変更にはそれなりの理由と時間が必要だったろう。しかし、唐手と言う教科が採用された明治38年に、すでに空手と言う文字が使われた事実がある。
それは、糸洲門下の二大巨星と呼ばれた二人の高弟、屋部憲通(男子師範)、花城長茂(男子中学)の一人、花城長茂で、彼の手になる「空手組手」なる著述があった。花城は唐手が使用された年にこの著述をしているので、明治に花城が空手と称し、昭和に入ってから船越が空手と言う文字を使った。
ただし、花城が「空手組手」を書いたことを船越は知らなかった思われる。船越の著書には、かれが初めて空手と言う文字を使ったように書いてあるからだ。
ただ、二人が空手の文字を使った思いと理由は異なっていたようだ。船越は彼の著書の中で、空手の空は、「色即是空の空」であると書いている。空手の精神面を仏教に依存したのだろう。
花城は琉球新報の座談会で、空手の空は「徒手空拳の空」であると発言している。糸洲安恒が創始した唐手の教科名を、教科とは関係なく個人的に執筆したものとは言え、高弟の花城が何故唐手でなく空手としたのか、それも唐手が教科として採用された年に書いたものであることを考えると不思議に思えた。
これは教科としての唐手の成立と密接な関わりがあったと考えられる。