拳聖群像

 沖縄を訪れると、さすがは空手発祥の地だけあって、いたるところに拳聖たちの顕彰碑がある。面白いことに、著名な先人が必ずしも顕彰碑があるわけでもない。

 この理由は簡単で、弟子を育てなかった、あるいは育てたとしても時代が変わって適合しなかった、直弟子ではなく孫弟子の時代に入ったなどいろいろな理由があろう。

 必ずしも優れた学者がノーベル賞を頂くわけでもなければ、学士院賞を頂くわけでもないだろうし、偉大な業績を残した方が勲章を頂くわけでもないことを、われわれはよく知っている。人間社会のことだから、必ずしも合理的、適確、公平と言うわけではない。

 

 拳聖の敬称も、顕彰碑も同じことである。大したこともない拳聖もいれば、一世を風靡した拳聖ではない達人もいたのだろう。

 例えば、勇名を馳せた本部朝基の顕彰碑が何処にあるのか聞いたことはない。型はナイファンチ一つで十分と言う彼の言葉や、実力の本部と称された数々の逸話は残っていても顕彰碑の存在は聞いたことがない。

拳豪の顕彰碑

 拳豪と呼ばれる一部の先生方の顕彰碑というのがある。ごく最近、「空手に先手なし」で知られる船越先生の顕彰碑が那覇市内の交差点に建てられた。本土さらには世界を風靡した松濤館流の創始者としては、少し遅かったかも知れない。

 泊手の松茂良興作先生の顕彰碑は、泊地区の小さな公園にある。糸洲安恒先生の顕彰碑(宮平勝哉先生が建立)は糸洲家の墓所に移築されている。喜屋武朝徳先生の顕彰碑は大変大きく立派なものだが、嘉手納町中央公民館の敷地にある。特に立派で堂々とした顕彰碑は、東恩納完量、宮城長順両先生の顕彰碑で、那覇商業高校に隣接する松山公園内にある。

 

顕彰碑がない

 ここで顕彰碑を取り上げたのは、「拳豪喜屋武朝徳先生顕彰碑」の前で、生前の金城先生が私に漏らした一言である。

 「こんなに拳豪だらけじゃ困るよなあ」

 金城先生は世代こそ違え喜屋武先生とは面識もあり、別に喜屋武先生を侮蔑したわけではない。金城先生から見れば、拳豪と呼ぶに値するのは、松村宗棍、糸洲安恒の両先生だけだったのではないか思われるふしがある。

 糸洲安恒先生の墓参はされるし、松村宗棍先生の墓参もされたが、この空手の祖とも呼ぶべき松村宗棍先生の顕彰碑はない。松村宗棍先生は糸洲門下の唐手家たちから尊敬され、その技法が目標とされたが、幕末から明治にかけての方で、文明開化の波の中で、先生ご自身も門下生も活躍の機会が失われ、武士松村宗棍の武名ばかりが聞こえていた程度で、その後の那覇市の知識人、政界、財界の人たちに知られることが少なく、直門の人たちも物故してしまった。

 そのような事情からか松村先生の顕彰碑はない。松村家の墓所に、「首里手の創始者松村宗棍ここに眠る」と言う墓誌名が子孫の方によって建てられているだけである。空手界の筆頭に位置する偉大な大家、功労者としては淋しい。金城先生の「拳豪だらけ」の発言はここにその理由があるのだろう。

 

※松村宗棍先生は唐手家たちの憧れであり目標であったことが、学校の教科であった唐手が学校体育に留まらず、武術にまで進んでいった理由である。私の成徳会では、組手競技が始まった時期に、唐手だけでは対応出来かねるので首里手の技法を取り入れた。

 

顕彰碑、墓誌等の紹介

 ここでは拳聖と言われる人たちで私が目にした顕彰碑や墓所その他を写真を中心に紹介しよう。

空手の源流 松村宗棍の墓誌銘

 同様に、首里手系統の空手では糸洲安恒以前に首里の手を編み出し、一世を風靡した武士松村宗棍の顕彰碑の存在も知らない。学校体操としての空手を編成した糸洲先生の功績の偉大さは言うまでもないが、何よりもそれらの元になった首里手の創始者の名が日本本土ではあまり知られていない。そして糸洲先生、本部先生、その他の空手の先人たちも、みな松村先生の手を探り、それに迫ろうと努力した経緯もほとんど知られてはいないのだ。

 かく言う私も、師の金城の導きで、首里手を探求しいつつ、せれを現代競技に適応させようと努力を重ねた。

 顕彰碑はないが、松村家の子孫の方が墓所に立てた碑文である。一般の空手の歴史で言う「首里で行われていた中国武術が首里手」と言うのではなく、松村宗棍の創始した手が首里手であることは、首里の人たちにとっては常識である。

 同様に空手の創始者糸洲安恒は、松村宗棍の弟子ではなく、せいぜい後輩と言うところだったろう。これは伊江男爵の言葉などからも分かることである。

 金城先生(向かって左)、中村先生が(向かって右)お元気だった頃、松村先生の墓参をした時の写真である。前掲の墓誌銘とお墓があり、そのお墓は日本式で、糸洲先生、花城先生の中国式墓所とは異なる。

 

空手の創始者、糸洲安恒

 この顕彰碑は、以前は山の中の糸洲家の墓所にあったが、那覇市の墓地の統合、整備で共同墓地に移され。山中にあった時の写真は亡失したので、これは共同墓地に移築後に移転したものである。

 糸洲家の墓所は中国風のも磦《環境依存文字》のになっていて、中国名は馮氏とされている。日本名は糸洲安恒(アンコウでヤスツネではない)、中国名は馮安恒と言うことらしい。

 

花城長茂の墓所

花城家の墓所と花城長茂についての記述

 空手の文字を最初に使ったのは花城先生で、それも明治38年のことだから唐手が学校体操として採用されて始めて世に出た年である。唐手を作った糸洲先生の助手を務めたのは屋部憲通(男子師範体操教師)、花城長茂(男子中学体操教師)のお二人で、糸洲、屋部、花城の三人の先生方が唐手を広めた。花城先生は退職後に真和志村長を勤めた。

 花城のパッサイ、ジオンは有名である。

 花城氏は中国名を明氏と称したようで墓所にはそのように記されている。墓は重厚な亀甲型の中国風の墓である。

 写真は向かって右から金城、中村、三谷(筆者)である。

 

喜屋武朝徳顕彰碑

 この顕彰碑は3メートルほどの高さのある壮大な顕彰碑で、那覇市ではなく嘉手納町の公民館敷地内に建っている。これは喜屋武朝徳が嘉手納の駐在所に勤務していたからだと聞いている。首里の空手家による沖縄神社での奉納演武でも、喜屋武は毎年欠かさず参加していたようだが、住まいが嘉手納に移っても空手を習ったのは首里だったからである。沖縄少林流の祖とされている。

 

松茂良興作顕彰碑

 松茂良興作は首里の空手家ではないが、松村宗棍とならび称されたほどの泊手の達人だったらしい。首里の空手家でも泊の手を取り入れた人も多く、例えば喜屋武朝徳、船越義珍もそうだ。喜屋武のパッサイ、親泊のパッサイなどは松茂良のパッサイからのものだろう。ワンシュウ(燕飛)、セーサンなども泊手である。

 これは泊地区の小さな新屋敷公園に建てられている。碑文にもあるように、子孫の方は松茂良から松村に改姓されたようである。

 

 

東恩納寛量・宮城長順顕彰碑

 首里系統の空手とは全く関係の無い人たちだが、剛柔流もまた唐手になったと言うことで、商業学校の体育正課として始まった空手と言うことで、ここに取り上げた。

船越義珍の顕彰碑


 沖縄で最も新しく建てられた顕彰碑は船越義珍の顕彰碑である。本土に初めて空手を伝えた先達としては少し遅かったかも知れないが、大変立派な碑が建設されていた。地名は忘れたが交通量の多い交差点に面した場所だった。

 沖縄少林流の野原耕栄先生のご案内で拝見した。